体育の授業が始まる前の休み時間、クラスの全員が教室で体操着に着替える。

今日から体育ではマラソンが始まる。教室には、クラスメイトたちの不満だという空気が充満していた。
叶は、ただ黙々と走ることのできるマラソンが嫌いではない。
空気の冷たさに同調するように下がった体温が徐々に上がってきて、段々と身体が軽くなるのが好きだ。
持久走というのは、手を抜くことも真剣にやらないことも、ただ自分の匙加減で、試されるもののベクトルは、体力よりも精神力へ傾く。
ひとりで走り続けるその競技は、どこかマウンドに立つことに似ていた。

着替えながら、なんとはなしに、廊下側の一番後ろの席へ視線を投げる。
そこは、織田の席だった。
飛び抜けて身長の高い織田は、クラス全員に平等に働くはずの席替えを無効にし、既に一年の大方をその席で過ごした。
たまたま入学当初に指定された名簿順の席がそこだった。
初めて席替えをした時には、一応織田にもクジを引く権利が与えられていた。
その結果、割り当てられた席に彼が座っていたのは、一日だけだった。
生徒ではなく、教師から物言いがついた。織田が前にいると後ろの生徒が見えない、と。
それから廊下側の一番後ろの席が織田の指定席となり、織田以外の全員がもう一度クジを引き、席替えが仕切り直された。
規格外れの体格の前には、民主主義も形なしというところだ。
まあ、あの席は、冬は少し寒いというだけで、あとは快適なようだから、一方的に不利益を被っているわけでもない。

その席で、織田はやはりみんなと同じように着替えていた。
ジャケットを脱いだ織田は、その下に胸に大きく「H」という文字の入ったセーターを着ていた。
「うわあ…」
微妙なセンスに、つい声が出る。
けれどすぐに、まえに織田が話していたことを思い出した。


**
たしか、あれは六月頃だった。
よく雨が降って、グラウンドで部活ができなかった時期だった。
室内練習で部活が早く切り上げになった時に、寮にある織田の部屋へ遊びに行ったことがあった。
その頃、寮生活を毎日修学旅行のようで羨ましいと思っていた。クラスでも部活でも入寮者たちが楽しそうに話をしているのを聞いていたから。
「遊びにくるか」と言われて、即答で「行く!」と答えた。
寮に入るのは初めてで、異様にキョロキョロする叶を織田が笑った。
寮では、学年が低いうちは上の階の部屋が割り当てられる。先を行く織田に倣い階段を上って一年の部屋を目指す。
「ここや、どおぞ」
目的地で脚を止めた織田が部屋のドアを開けて振り返った。
「おじゃましまーす!」
一応挨拶をして、織田の脇を通り部屋の中へ入る。
高校生男子にしては、よく片づいた部屋だった。思い浮かべた自分の部屋と比べ、素直に感心した。
ドアを閉めて入ってきた織田が立ったままの叶に、床にあった座布団を示す。
「そこ座り」
「おうサンキュ」
織田は勉強机から椅子を引っぱり出し、そこに腰掛けた。それから帰る途中で買い物をしてきた袋を漁り、飲み物や菓子を用意し始める。
なんとなく落ち着かず、部屋をぐるりと見回す。ふと、窓際に目が止まった。
そこには洗濯物が干されていた。洗濯されたアンダーシャツが何枚かハンガーにかかっている。
叶の視線に気付いた織田が照れたように笑う。
「すまんな、最近雨続きで、外に干せんから。乾燥機はどうも好きになれん」
「…いや」
上の空で織田に答えながら、寮にはしゃいだ自分を反省していた。
寮で生活するということは、掃除だって洗濯だって自分でやらなきゃいけないということだ。
そんな当たり前のことに今更気付いた。
掃除はともかく、洗濯なんて母親に任せきりの自身を思い返し、日常として洗濯をこなす織田を尊敬した。
視線を洗濯物から外さないでいると、織田が不審気な声を出す。
「どうかしたんか?」
「いや…。なんでもない。…あれ?」
「なんや?」
ぼんやりと見遣ったアンダーシャツに何かを見付けた。
左の裾のところに、何か文字のようなものがあった。
自分のアンダーシャツにはないものだ。気になった。
小さかったが、視力には自信がある。ジッと一点を凝視し、見極めた。
「H?あれなんだ?」



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