見慣れたアンダーシャツ、大きさは自分のものとは全然違うけれど、ハンガーに掛けられ半身がこちらに向けられている。
織田の育った環境を捏造するのが一番楽しかった!
見えている裾の部分に、小さく「H」という文字があった。
叶は、違和感をそのまま口にした。
「H?あれなんだ?」
その問いに、織田の視線もつられて窓際へと向く。
「ああ、アレなあ」
笑いを含んだ織田の声に、やっとアンダーシャツから目を離し、織田が座っている学習机のほうへ向き直った。
続く言葉を待ったが、織田は一度言葉を切り、なかなか再開させない。
「なんだよ」
にやにやという擬音がピッタリの表情が気に障る。痺れを切らし、先を促した。
「いや、ちょお安心してん」
「は?何がだよ?」
意味不明の織田の言葉に、自然と眉が寄る。
「叶はオレに興味ないんやと思おてたから」
「はあ?」
全く話が見えない。
会話をしているはずなのに、一方的に置いていかれているようで、気分が悪い。心情を隠さず睨みつければ、織田は気分を害すでもなく、更に笑みを深くする。
「そう恐い顔せんでもええがな。あんな、叶だけアレについて訊かんから、どうでもええ、思われてんかな思おてたんや」
さらりと流される言葉に引っかかるものがある。
「オレ、だけ…?」
いま、織田は確かにそう言った。
「ああ、けど、こんなん言うたら自意識過剰みたいでカッコつかんな」
織田は、独り言のように呟いてから、足りない言葉を補った。
「野球部の奴らって結構懐っこいやん。なんやろ、仲間意識が強い、言うんかな」
織田が言っているのは、特に持ち上がり組のことなのだろうとすぐに察した。そりゃ、つき合っている時間の長さが長ければ、気心も知れる。
時間の長さ以上に、あいつらっていうか、オレらの中学三年間には、特別に結束を強める楔があった。
「悪い意味で言うてんのとちゃうで!そない顔すんなや!」
何故か慌てたように織田が身を乗り出して弁解をする。一体どんな顔をしてたと言うのか。
咄嗟に俯いてしまってから、すぐに後悔した。まっすぐに顔を上げていられない自分に舌打ちをする。
気持ちを切り替えたくて、低く声を出す。話の続きも気になっていた。
「それで?」
顔をあげると、織田はホッとしたように姿勢を元に戻した。
「ああ、それでな、全員に訊かれたんや、代わる代わる、コレなんだ?て。あいつらおもろいやんな」
言いながら、織田は窓際のアンダーシャツを指し示す。
「全員?」
素朴な疑問に織田は、大げさに頷いた。
「全員。叶以外な。一々説明させられたわ。珍しいもんは気になるんやって、知らないもんは知りたいんやて、あいつら言うてたから、叶は訊かんのかて気になってたんや」
笑いながらそう言う大男を見上げながら、呆れ半ば、感心半ばの微妙な心持ちを知る。
織田が同じ質問に根気強く答える様はすぐに想像できた。
織田はこう見えて結構繊細だったりする。視野が広くて、小さなことにも気を配ることができる。
日常会話で誰と話をして、誰と話をしていないかなんて普通覚えていない。
そんな些細なことを気にして、他人の心配なんて普通しない。
そう、織田は心配していたのだ、きっと。そんなこと言いやしないけど。
「別にお前に興味がないわけじゃねーよ」
高等部に上がってから二ヶ月半、いままで周りを気にする余裕などなかったのだ、という事実を突きつけられた気がした。
自分のことで手一杯で、他人のアンダーシャツなんて目に入っていなかった。
織田に興味がないのではなく、正直に言えば、全てのことに興味を持てなかった。
それでも野球を続けていた。投げることには執着していた。それだけは、特別だった。
五月の練習試合を経て、色々なことにきちんと納得できたのは、人並みに周りを見ることができるようになったのは、つい最近のことなのだと、改めて気付く。
「そうか、そら安心したわ、ありがとさん」
嬉しそうに破願する織田に少し怯む。つい余計なひと言を付け足してしまう。
「かといって、興味があるわけでもねーけど」
織田は笑顔のまま、心ない一言にも律儀につき合った。
「ひど!そんなん言わんでもええやん。そういうんは思ってても黙っとくもんやで」
諭すような織田の口調がおかしくて、笑う。
一頻り笑ってから、結局、最初の質問の答えを聞いていないことに気付いた。
「で、Hって何なんだ?」
「ああ、畏まって言うような深い話でもないんやけど」
織田は一旦笑いを収めて、眉尻を下げた。
「ウチの教育方針で、持ち物には名前を書きなさいて、喧しく言われんねん。で、アンダーシャツにはこっち来る前に母親が全部刺繍入れよってん」
裕行の頭文字や、そう言って織田は困ったように笑う。
どこの小学生の話かとチラッと思ったが、今度は口にしなかった。
「へえ」
自分で訊いておいて我ながら薄情だと思うが、それ以外に答えようもなく、とりあえず、1へえを献上した。
「せやから大した話やないて言うたやろ」
さすがに、そうだな、とは言えず、曖昧に言葉を濁す。
織田は、袋から取り出したペットボトルのお茶を差し出しながら、せや、と言葉を繋ぐ。
「ついでに、笑ける話したろか?」
お茶を受け取り、聞き返す。
「サンキュ。うん?」
急に真顔になった織田が重く口を開いた。
「ウチの母親は、離れて暮らす息子の誕生日には、イニシャル入りのセーターを送るもんやて、マジメに信じてるんや」
その口調は本気とも冗談ともつかず、短慮に笑い飛ばしてしまうのは躊躇われた。
いっそ冗談だったらいいけれど、織田は親をネタに冗談を言うようなタチでもない。ひとの親を笑うことにも抵抗があった。
「へ、へえ」
どう答えようか迷った挙げ句、思わずどもって、1.5へえ。
それでその話題は断ち切られたと記憶している。
**
「叶ー!何ボーっとしてんだ?行くぞー」
声のした方を向くと、畠が織田の席の近くで呼んでいた。隣には織田が立っている。
考えごとをしながらも、手は勝手に憶えている手順をなぞり、いつの間にか着替えを済ませていた。
脱いだ制服を大雑把にひとまとめにして机に置く。
「おー」
応えながら、待っていてくれた二人のもとへと急いだ。
教室の後ろの出入り口で追いついて、ジャージを着込んだ長身を見上げる。
「なあ織田、お前今月誕生日だっけ?」
唐突な問いかけに織田は驚いた顔を見せた。
「なんや、よお知ってんな。せやねん」
「へー。そうなのか?何日?」
「しあさって」
「ふーん、オメデトー!」
「おおきに。て、しあさってやて言うてるやん。当日言うてえや。そんなとこ横着せんかてええやろ」
織田と畠の会話を横で聞きながら、すぐ側の机の上に几帳面にたたまれて置いてあるセーターを眺める。
(あの話、やっぱネタじゃなかったのか)
「ほら行くで。遅れる」
織田が急かし、三人で廊下を急ぐ。既にクラスメイトの大半は移動してしまっていた。
廊下を男三人横列で歩くのは、迷惑以外の何ものでもないので、織田と畠を先に行かせ、その後ろを早足で歩く。
織田のすぐ後ろのポジションに立てば、視界は、織田の背中だけになる。顔を上に向けなければ、彼の頭さえ見えない。
体格について織田に腹を立てるのはお門違いだと分かってはいるが、それでもやっぱりおもしろくない。
大きな背中を睨みつけながら、さっきこの背中が着ていたセーターを思い出し、ふと、考える。
例えば自分が織田の立場だったら、あの微妙なセーターを着られるだろうか。
アンダーシャツのような控えめさもなく、でかくアルファベットの入ったセーター。それがイニシャルなんて、なお悪い。正直、あのセンスはナシだった。
別に着なくても親が見ているわけじゃないし、誰に咎められるはずもない。
それでも当たり前のように、学校に着てこられる織田に感心する。
ひとの気持ちをきちんと受け止めて、決して大げさにではなく自然にそうふるまえるということは、凄いことなのだと、この男は知っているだろうか。
体格だとか、打撃センスだとか、そんなことより以前に、人として、彼は自分から遠い位置に居るのだと思い知らされる。
認めてしまうのは悔しいけれど、現時点では、事実であった。
もちろん、いつまでもその差に甘んじるつもりは到底ない。
靴を履き替えるために下へ向けた視線をキッと上げる。
「織田!お前には負けねえからな!」
決意も新たに宣戦布告をしてから、織田の横をすり抜け、グラウンドへと一歩踏み出す。
「急になんや。オレかてマラソンは苦手やないで」
織田に真意が伝わるはずもなく、後ろからトンチンカンな答えが返ってくる。
(そうだな、まずマラソンからか。それも悪くない)
「よし!織田、勝負だ!!」
振り返り、斜め上にあるモミアゲに人差し指を突きつけた。
置いてかれてたまるか。
HAPPY BIRTHDAY!! dear 織田裕行
2005.02.21.
**
友人に織田と叶も祝ってね、と言われたので、頑張りました。…精一杯です。
オダカノの彼女が、こんなのを望んでたわけじゃないということは、よくわかってます。
私の書く叶と織田は、カップリングではないので、部屋にふたりきりでもなにも起こりません。すみません。(一応あやまっとこ)
ところで、私は織田を誤解してますね。書いてるうちに気付きました。(遅)
蛇足
「誕生日プレゼントって当日に着くもんじゃないのか?」
「あー、日付指定し忘れたんやて…。ウチの親、肝心なとこ適当やねん」
どうでもいいけど、イニシャル刺繍は手作業ではなく刺繍ミシンです。
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