阿部が横を向くと、三橋がなにやら必死に格闘していた。
よく見ると、右手に腕時計を持ち、左腕に着けようと試行錯誤しているようだった。
そんなに大変なことだろうかと、阿部は少し呆れるが、不器用な三橋は必死で、その様は微笑ましいと言えば微笑ましい。

「三橋、いま何分だ?」
時間を知りたかったからちょうどいいと、阿部は三橋に声を掛ける。
しかし、三橋の返事はない。
依然手を動かし続ける三橋の目は真剣で、集中しています、と頬に書いてあるような表情をしていた。
聞こえてないのだろうと理解はできたが、無視をされて気分がいいはずもなく、阿部はもう一度三橋を呼ぶ。
「おい、三橋」
呼ぶのと同時に三橋の目と左腕のあいだの空間でひらりと手を振った。
突然の介入に、三橋の身体がビクリと揺れて、手の中にあった時計を取り落としそうになる。
慌てて両手で時計を押さえて、三橋はやっと顔を上げた。
「っえ!は、はい!」
咄嗟に出た三橋の敬語に阿部は苦笑する。
そんな阿部に三橋は首を傾げた。
「な、なに?阿部くん」
「いや、おまえ時計持ってるから、いま何分?って聞いたんだ」
阿部はごく単純な質問をしたつもりだったが、訊かれた三橋は、いつも以上に挙動不審に目を泳がせた。
「え、えっと…。ちょ、っと待って!」
その反応に腑に落ちないものはあるものの、どうすることも出来ず、阿部は三橋の行動を黙って見守ることにした。

三橋は両手に持った腕時計を自分の目線に掲げる。
それから、ジッと盤面を睨みつける。
確実に一分は見合ってから、三橋は何かをやり遂げたような誇らしげな表情になり、阿部を見た。
「にじゅうはっぷん!だ、よ」
「長えよ…」
散々待たされた三橋の答えに阿部は脱力する。
「なに、おまえ時計よめないの?それなら、デジタルの時計にすりゃいーじゃん。つうか携帯持ってるだろ?時計必要か?」
着けられもしないのに、と阿部は心の中で付け加える。
「叶くんが、くれたんだ!!」
三橋が、ニコリと幸せそうに笑う。そんな三橋の表情はとても珍しく、阿部は思わず目を疑った。
だが、すぐに気を取り直す。
「そうか、良かったな。それなら、着けてやるよ」
三橋が幸せそうなのは、阿部も嬉しい。
柄にもない親切心を発揮して、腕時計を掴み、三橋の左腕を手繰り寄せた。
「え、でも…」
これまた珍しく三橋が阿部に抵抗する。
「ナニ?」
阿部の手から自分の腕を取り返した三橋は俯きながらも、きちんと意見した。
「あ、の。自分で着けないとダメだから。これから毎日着けるし、あの、でも、あり、がとう」
あの三橋がきちんと反論をした、その成長に阿部は感動した。
そう言うならばと、三橋に腕時計を返そうとして、ふとその盤面に目をやった。

「……おい」
そこに見た光景に、自然と阿部の声が低くなる。
その声の低さに、三橋がビクッと肩を震わせた。
「…五十分じゃねえか。テメエ、どこが二十八分だよ?!」
三橋が時計をよんでから、まだ五分と経っていない。あまりのことに、思わず語気も荒くなる。
「ひっ!あ、のそれ五分早い、んだよ」
三橋は素直に怯えながらも、意思表示をした。
「五分?」
阿部は、意表を突く三橋の言葉に聞き返す。
「うん!群馬の時間!」
満面の笑みで返されて、阿部は項垂れた。
(なんだ、それは。叶の入れ知恵なのか?いつから群馬は五分も地軸がズレたんだ?つうか、この時計が五分早いとしても二十八分とは何事だ。三橋は時計がよめないのか、引き算ができないのか。どっちにしても問題だ。時計のよみかたって、確か小学校で習うんだよな。引き算だってこの程度なら、小学校だろ…)

阿部は、何が嬉しいのか、ニコニコと笑う三橋の腕を取ってすばやく腕時計を装着させる。
「え、あの、阿部くん?」
戸惑ったように見上げる三橋を一喝する。
「おまえは、まず時計のよみかたと引き算だ!!着ける練習はそのあと!!」
わかったな、と念を押せば、その剣幕に、三橋がコクリと頷いた。
何も分かっていないような表情の三橋に、こう言った以上自分が教えなければならないのかと、ため息をつく。
手の掛かりすぎる投手と、厳しい現実に、阿部は肩を落とした。



**


部活が休みだからと、群馬からやってきた叶が帰り際、駅まで送った三橋に向き直り、まっすぐに三橋の目を捉えた。
「廉、これやるよ!」
そう言って差し出された叶の手には、腕時計があった。
三橋は、その腕時計を知っていた。
三年前、叶は大事そうにその腕時計を両手で持ち、「親父にもらったんだ!」と言って、見せてくれた。
中学の入学祝いにと父親からもらった腕時計を、叶はとても大切にしていた。その時計は、中学三年間、野球をする時以外はいつでも叶の腕にあった。
いま差し出されているのは、間違いなくその時計で、三橋は忙しなく時計と叶とを見比べた。
「え…?だって、こ、これ…。か、のうくん?」
「ほら、やるってば。新品じゃなくて悪いけど」
そう言いながら、叶は三橋の左手を引っ張り、腕時計をその掌に押しつけた。
三橋の手に収まった時計は、直前まで握りしめていた叶の体温を移していて、熱を持っているようだった。
その熱さに、三橋は我に返る。ぼんやりと手の中のものを見つめていた視線をパッと上げた。
「も、もらえないよ…!」
すぐに返そうとする三橋の手を叶は、時計ごと両手で包んだ。それから三橋の目を覗き込む。
「廉、これな、オレの大事な時計なんだ」
殊更ゆっくりと、言い含めるように叶は言葉を紡ぐ。
三橋は、叶の言わんとすることが掴めずに、目をしばたたかせる。
「ウン。…知ってる、よ?」
その答えに、叶は嬉しそうに笑った。
「そうか。それでな、大事だから、廉に持っててほしいんだ」
やはり、言葉の意味がわからずに、三橋は叶をただ見返す。
「これから廉は、西浦で頑張るだろ?オレは、三星で頑張る!いままでみたくずっと側にはいられないし、家も遠いから頻繁には会えない」
三橋は、叶の表情を凝視していたから、言いながら叶の目が少しだけ揺れたのを確かに見た。
その顔から益々目が離せなくなる。
「だからな、これを廉が持っててくれたら、少し廉と繋がってられるような気がするかなって。そう思ったんだ」
叶は、決して三橋から目を逸らさない。昔からいつでもそうだった。
三橋の重たい脳が、叶の言葉をゆっくりとじっくりと理解しようとフル回転を始める。
「な。だから、持っててくれよ。廉」
懇願にも似たその声音に、三橋は弾かれたように目を見開く。
「あ!あのっ!だったら、オレも何か…!」
わたわたと、三橋が自分の身体をまさぐる。
手ぶらで出掛けてきた三橋が何かないものかと、必死で探し出す。
その様子があまりに三橋らしくて、叶は思わず吹き出した。
「いや、いーよ。気持ちだけで。ありがとな」
どう見ても身軽な三橋が何かを持っているとは考えられなかった。何もない、と三橋が落ち込む前に叶は助け船を出す。
けれど、予想に反して三橋は何かを差し出した。
何かと見れば、うっすらと土で汚れた硬球だった。
「ご、ごめんっ!これしかなかった」
そう言って出されたボールを叶はポカンと見る。
確かに、三橋の手の中にはしっかりとボールが握られていた。
どこから出したのかとか、いつも持ち歩いてるのかとか、問い質したいことは山ほどあったが、それよりも何よりも。

いま、自分が欲しかったものがそこにあった。差し出されて初めてそのことに気付く。
その奇跡に、言葉を失った。

動かずにいる叶に、三橋が顔色を変える。
「ごめん…!こんなのいらない、よ、ね。汚いし」
三橋は、自分の服でボールを擦り始めた。
叶は慌ててそのボールを三橋から奪い取る。三橋は驚いて叶を見返す。
「あ!ごめん!その…これ、くれるんだろ?ありがとな!廉はスゲーな」
「スゴイ?」
三橋が不思議そうに首を傾げる。
「うん、スゴイ!オレ、これが欲しかったんだ!ありがとな!」
汚れたボール。そのこびりついた土にこそ価値があった。三橋が投げ込んで持ち歩いていたボール。
愛おしくて、叶は無意識にそのボールに口付ける。

その瞬間、三橋はついに叶の言葉を理解した。
叶が腕時計をくれた意味を、過たず理解した。

遅まきながら、理解した刹那、三橋の体温がグンと騰がる。
手の中にある叶の宝物を実感し、嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて。
涙が込み上げた。
けれど、ここは外で。こんなところで泣いてしまったら、きっと叶を困らせる。
三橋は、懸命に涙を零さないように堪えた。
叶は、三橋の表情に気付き、微笑いながら三橋の頭を撫でる。
優しい手の感覚に、三橋の目の端から涙が一筋零れ落ちた。それでも、三橋が泣き崩れることはなく、唇を噛みしめて泣くのを堪えた。

三橋の頭の中は、叶が腕時計をくれたことの感動と、どうにかして涙を抑えようとすることでいっぱいで、叶が最後に話したことをほとんど聞いていなかった。

「もう電車来ちゃうな。あ、そうだ、廉。その時計な、五分早めてあるから!廉はトロいから、その時計に合わせて動けば、少しはいいだろ!」
無意識に頷いた三橋が、まったく話を理解していないことなど、叶は考えもしなかった。
それじゃあな、と言ってから、またな、と言い直す。
「またな、廉!」
改札へと向かうために背を向けた叶に、三橋は、お礼を言ってなかったことに気付く。
「あ、叶くん…!ありがとう!!大事にするよ!また、ね!」
三橋は、振り返った叶の鮮やかな笑顔を目に焼き付ける。
その背中が見えなくなるまで見送って、見えなくなってからもしばらくその場で佇んでいた。

叶は帰ってしまってここにはいないけど、手に握り込んだ腕時計が今度は三橋自身の体温を移して熱かった。
それが嬉しくて、三橋は笑う。
きっと、これが叶の言った「繋がっていられるような気がする」瞬間なのだと、考えたら嬉しくて。
叶の真似をして、その時計にそっと口付けた。




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1・2月のオンリーで配ったペーパーの再利用です。

友人には三橋がアホすぎると大不評でした。
私もそう思います。
でも、実際私はアナログ時計よめないので(えー)ありえない話じゃないと思うんですが。
ダメですかね…。
三橋と叶は対等であればいいと思います。