オレには、シューチシンとジョーシキが足りないのだそうだ。
昨日そう言われた。
だから、今日はシューチシンとジョーシキについてずっと考えていた。
それを言ったのがとても大切なひとだったから、彼が足りないと非難することについては、真剣に考えなければならなかった。
机の中に置きっぱなしの辞書だって使ってみた。
それで言葉の意味はわかっても、正直、自分では足りないのかどうかわからなくて、首を傾げる。
紙の上の文字は実感を伴わず、いまいちピンとこない。
今日一日ずっと考えていたけど、よくわからなかった。
部活が終わって当番だった倉庫整理も終えて部室へ戻る途中、グラウンドの外フェンス越しに、彼を見つけた。
すぐに駆け寄って声を掛ける。
「阿部!どこいくんだ?」
阿部は既に着替えも済ませていた。
「あ?帰んだよ」
「なんだよ、声かけろよ!オレも!オレも帰る!」
「は?だってお前これから着替えんだろ?」
まだユニフォームのままの姿に阿部が呆れたような顔をした。
「このまま帰る!すぐカバン取ってくっから、ちょい待ってて!絶対な!」
最後の方は、もう駆け出しながら言った。
だって、阿部と一緒に帰りたい!
そりゃもう全速力で走って、部室のドアを破るように開けて、カバンをかすめるように取って、「お先!」って挨拶をして、開けっ放しだったドアから跳びだした。
「おい田島!ドアはもっと静かに開けろ!壊れるだろ!」
うしろで花井の声がしたけど、答える時間がもったいなくて、聞こえなかったふりをした。明日謝ろう。覚えてたら。
外はもう暗いけど、遠くからでも阿部を見つけることはすぐにできた。さっき話しかけたところから、動かずにいてくれている。
その位置は、ちょうど部室とグラウンド出入り口の中間地点くらいで、出入り口を使うために走らなきゃなんない距離がもどかしかった。
オレは迷わず、最短距離を一直線に阿部の前のフェンスまで走った。
だけど、このままじゃすぐ向こうに阿部がいるのに、あいだにあるフェンスがジャマで、手を伸ばすこともできない。
「田島?なに…」
阿部が何かを言う前に、ピョンっとジャンプをして目の前の金網に掴みかかった。
それほど高さのないフェンスは、一度のジャンプで枠の上に上半身を持っていける。腕の力で身体を持ち上げ、フェンスの上に立った。
ほら、これであと一歩。
ためらわず飛び降りて、阿部が立ってる位置のすぐ横へ着地をきめた。
横を見れば、上に向けていた首をゆっくりと戻した阿部とちょうど顔を見合わせるような格好になった。
「おまたせ!」
「おっま…!危ねーだろ!横着すんな!!」
すぐ横で阿部が怒鳴る。
「こんなに暗くて、なんかあったらどーすんだ!」
そんなヘマはしないけど、阿部が心配してくれてることが嬉しかった。だから、言い返すことはしない。
「速かっただろー?」
「んな急がなくても、逃げねーし」
そんなこと知ってる。阿部は、ちゃんと待っててくれる。
「阿部が逃げなくても、オレが少しでも速く阿部のとなりに行きたかったんだ」
思ってることをただ言えば、阿部が言葉をつまらせた。周りが暗くて、近づかなくちゃ阿部の表情が見えない。
阿部の顔が見たくて、ぐっと顔を近づける。
それに驚いたのか、阿部がさっと踵を返した。
それでも寸前、その表情を見極めた。動体視力には自信がある。
阿部はそのまま何も言わず、歩き出した。
その背中を見ながら、考える。
いまの表情には、見覚えがあった。
そうだ、つい昨日見た。
「お前には、羞恥心と常識が足りない!」
一日中考えてもよく分からなくて、のど元に引っかかっていた言葉が、やっと実感を持って、すとんと腹に落ちた。
「なんだ」
思わず声に出してしまった呟きは、足早に歩く阿部には聞こえなかったみたいだ。
たとえば、常識を身につけることで、百歩を一歩に縮めることができなくなるのなら。
たとえば、羞恥心を身につけることで、大きな声で好きだと言えなくなるのなら。
そんなものいらないと、足りないままでいいと、オレは思う。
いまオレにとって一番大事なことは、いかに速く阿部のとなりにたどり着けるか、いかに永く阿部のとなりにいられるか。
いくら阿部でも、それだけはゆずれない。
答えが出てすっきりした気分で、前を行く阿部を追う。大股に足を踏み出した。
その背中まで、あと三歩。
阿部の歩調が少し弛んだ。阿部は、ちゃんと待っててくれる。
そのとなりまで、あと一歩。
2005.10.16.
冷やかし程度に10のお題F−7 あと一歩