「集合!」
監督の声を合図に、朝練が終了した。
「「あっした!」」
挨拶を済ませ、部室へ戻ろうと踵を返す寸前、監督に呼び止められた。
「あ、阿部くん!」
「ハイ、何スか?」
「ごめん、言い忘れてた。連絡網が出来たからみんなに配ってくれる?部室に置いてあるの」
何のことはない用件に、素直に頷いた。
「ハイ、わかりました」
「ありがとう、よろしくね!おつかれさま」
「おつかれさまでした」
部室は狭くはないが、男が十人一斉に着替えを始めれば、無駄なスペースなどはなくなる。
全員が居るうちに配ってしまわなければ、後々面倒なことになると思い、自分の着替えは後回しにし、なんとか人と人の隙間を縫って、連絡網が置いてある机の前まで到達した。
「オイ!連絡網配るぞ!一人一枚取って隣に回せー」
全員に声を掛けてから、束を二つに分けて机に近いところにいた西広と沖にそれぞれ渡した。
手抜きのようだが、人数が多いわけでもないし、効率はいいはずだ。
それから自分の着替えを始める。
ふと、横で着替えている三橋を見れば、ずいぶん前から着替え始めたはずなのに、未だ練習着を脱ぎきっていなかった。
ただでさえトロい三橋の手が止まる。回ってきた連絡網が隣にいた泉から差し出されていた。
「う」とか「わ」とか言いながら、三橋が受け取る。
受け取った紙を確認したその表情がにへらと緩んだ。
「ナニ笑ってんだよ」
気になって訊けば、途端にキョドっと三橋の目線が泳ぐ。
その反応に少しの苛立ちを感じたが、なんとか堪える。少し待ってやると、三橋はおずおずと口を開く。
「だ、だって。…メンバー表だ、よ!」
(ああ、チームができてきたのが嬉しいのか)
そのチームに、ちゃんと自分の名前があるのが嬉しいのだろう。ヒイキなんかじゃなく当たり前に名前があることが。
気持ちは分からなくもなかったが、あまりのんびりしていられる時間でもなかった。
「いつまでも見てねえで、さっさと着替えろ。時間なくなるぞ。オレのも一緒にそこに置いとけよ」
三橋が荷物を乗せているベンチを指さして少し強めに言う。順調に回された連絡網は最後の二枚になっていた。
「うおっ、そうだ、ね」
時計を確認した三橋は、連絡網をベンチの上にそっと置くと、もたもたとアンダーシャツを脱ぎ始めた。
いつも通りに、着替えを終えたのは三橋が最後だった。
「三橋ー!教室行くぞー」
とっくに着替えを終えて待っていた田島がタイミングを見計らって声を掛ける。
部室に残っている部員は、半分以下になっていた。
「う、ウン!ご、ごめん!」
待たせてしまった自覚のある三橋が謝る。
慌てて出しっぱなしにしていたペットボトルを鞄にしまおうとして、取り落とした。
ペットボトルが打ちつけられたガンっという盛大な音よりも、ザアっという幻聴の方がハッキリ聞えたような気がした。
音を立てて三橋の顔の血の気が引いた。
(ったく、コイツはすぐ顔に出る…)
何事か、と三橋の顔からベンチの上へ視線を移す。
「うわ…」
思わず声が出てしまった。
ペットボトルの蓋をきちんと閉めていなかったのだろう、中身をぶちまけていた。
烏龍茶の水たまりが出来ていた。
連絡網の上で。
蒼を通り越して白くなった顔色で立ちつくしていた三橋が、その声にビクリとこっちを向いた。
「………アッ!!」
重い頭が、そこに連絡網が二枚あったということに辿り着くまでに時間がかかったのか、しばらくしてから急激に落ち着きがなくなる。
「ごごごごごごめ!!!」
器用に小刻みに動く唇は、一体口がまわっているのかまわっていないのか、どっちだかわからなかったが、三橋がパニックであるということはよく分かった。
「ご、ご、ゴメン!阿部くん!!」
次にやっと言葉らしい言葉を吐く。
「いや、いーけど。鞄は?大丈夫か?」
そんなに謝るほど大変なことでもない。連絡網くらい、いくらでも代えがきく。
「え、う、ご、ごめっ…」
最早、聞こえてはいるものの、言葉の意味を理解していないのか、三橋の目が揺れた。
「どーした、三橋?こぼしたのか?」
三橋の様子に気付いた田島が、短い距離を走って近づいて来て覗き込んだ。
「うわあ、派手にやったなー!ま、しょーがねーよ。ほら、コレやるから元気出せ!余ったんだ」
ベンチの上の惨状を見て、田島がストレートに表現する。
それから手に持っていたプリントを三橋に差し出した。それは、濡れていないさらの状態の連絡網だった。
田島は、泣き出す手前だった三橋の手にそれを押しつける。
三橋は、渡された紙に視線を落として、大きく瞬きをした。
「うえ、で、でも。じゃあ、こ、コレ阿部くんが。ごめんね」
三橋はもう一度謝りながら、受け取ったプリントをこっちに向けた。
「オレはいーよ。あとで花井にでもコピーさしてもらうから。気にすんな、それはお前が持ってけ」
あんなに嬉しそうにしてた連絡網を三橋からもう一度取り上げるのは、気が引けた。
「え、でも…」
「いいから。そろそろ教室行かねーと」
まだ躊躇う三橋の背中をもう一押しする。現実に、ここでいつまでも押し問答をしている時間の余裕はなかった。
「アリガト」
申し訳なさそうに手を引っ込めた三橋は、そう言って少し笑った。
**
「お、阿部ーー!!」
昼休み、廊下を歩いていると、前から来た田島に呼びかけられた。
ちょうど田島に用事があって、九組に向かう途中だった。
そのまま少し歩いて目の前に田島が駆け寄ってきたところで脚を止める。
「はい、コレ!阿部の分な!」
何の前振りもなく、凄い勢いで何かを差し出された。
見れば、それは今朝配った連絡網だった。
「いま泉に借りてコピー行ってきた!」
無邪気に笑いながら差し出されたものに、けれど、手を伸ばすことができなかった。
右手は物を持っていてふさがっていた。
リアクションのなさに、田島が首を傾げる。
「ン?あれ?」
咄嗟に背中に隠した右手のものを、西浦の四番打者は、持ち前の動体視力で一瞬にして正確に見極めた。
「連絡網だ!なんだ、かぶっちったか。ソレ二枚あんのってもしかしてオレの分?」
大きな目をキュっと動かした田島が、真っ直ぐに見据える。
悪びれる様子もなく、ものだけでなくその意味まで正しく見抜いた。
コイツの前では、隠し事なんてできないような錯覚を覚える。
朝、配ったときに連絡網は、人数分十枚しかなかった。
余るはずがないのだ。
何か言わなくては、と言葉を探すが、しっくりくる言葉を見付けることができずに黙り込む。
逆に、沈黙とは無縁の田島が迷いなくあっけらかんとした声を出す。
「なあ、ソレ一枚くれよ」
もともと田島のために用意したものを渡すことに何の問題もなかった。
言われるままに、右手から一枚抜いて差し出す。
「サンキュ」と笑いながら右手で受け取った田島は、同時に左手をもう一度伸ばす。
「ほい。じゃあ、交換な!」
その左手には、田島がコピーしてきた連絡網があった。
すぐに言葉の意味が飲み込めず、やはり手を出すことができなかった。
「こ・う・か・ん!」
焦れた田島がもう一度わざとらしいほど区切った発音で意思表示をした。
その声に促されて咄嗟に左手を伸ばし、田島の持っている連絡網を受け取った。
田島がニッと歯を見せて笑う。
「まあ、一枚は無駄になったけど、いーだろ。せっかくオレの分コピーしてくれたんだし」
その何気ない言葉に、行き場を失っていた気持ちが、救われるのを実感した。
全く同じはずの左右に持った紙切れなのに、左手の方が重いような、熱いような、そんな幻さえも異様な現実感を持ってそこにあった。
(コイツには、敵わない)
ふとよぎった敗北感さえ心地よい。
「じゃ、そんだけ。またホーカゴな!」
あっさりと言って、田島は用事はすんだとばかりに、教室へと戻って行く。
廊下に取り残され、左手を見る。こんな紙切れ一枚に左右される自分が滑稽で、独り低く笑う。
回れ右をして歩き出し、けれど、そうではないことにハタと気付く。
左右されているのは、紙切れに、ではなく、彼に。
そう考えて、意識して息を吐く。
(それならば、仕方がない)
至った境地は諦めではなく、ひどく愉快な心持ちだった。
**
最初に書いた、タジアベ。(と言い張る)
タジアベ大好きなんですが、好きすぎていつでも空回る…。
表現力と説得力がほしい。