「っっテエ!?」
榛名が短く悲鳴を上げ、反射的に手を振り上げる。
声に驚いて一瞬目を開けた阿部は、見上げてしまった振り上げられている手の恐怖に、すぐにもう一度もう一度ギュウウっと目を瞑り、咄嗟に歯を食いしばった。
榛名は、不意を打たれた痛みの正体を見極めるべく、上げたままの自分の手の先を見た。
その手には、ぶらりと何かがぶら下がっていた。
依然続くキリキリとした痛みに、胸の前に持ってきた手を振る。
榛名の左手には、子ウサギが食らいついていた。
さっきまで眠っていたはずの、榛名が回収しようとしていた子ウサギだ。
目を覚ました田島は、全力で振られても落とされまいと顎に渾身の力をこめる。
「んんん……んーんーんんんん!!」
何かを言おうとするが、口を開けないせいで、意味のある言葉にはならなかった。
「おまえ……」
榛名は、まず手にぶら下がっている子ウサギの首根っこを掴んで、力任せに引っぺがす。
そのまま目の高さまで持ち上げて睨みつけた。
「ケガしたらどうすんだよ」
人も殺せそうな榛名の強い眼力にも負けず、田島はギッと強く榛名を睨み返す。
「はいはい、そこまで」
六倍の体格差を思わせぬ対等さで、両者間に張り詰める一触即発の空気を相変わらずのんびりとした声が遮った。
「榛名、離してあげなよ。たいして痛くないだろ」
秋丸が冷静に取りなす。
実際、草食のウサギの歯はそれほど鋭利な発達はしていない。
それでも突然噛み付かれれば驚くし、渾身の力をこめられればたいしたことはなくとも痛いのだ。
「他人事だと思って」
ボソリとぼやきつつ、榛名は田島をゆっくりと地面に降ろし、首根を摘み上げていた指を解いた。
「田島!」
青ざめて成り行きを見守るしかなかった阿部が、すかさず田島に駆け寄る。
「おー阿部、大丈夫か?」
当の田島はケロリとしたもので、阿部は何よりも安心したが、ハラハラした自分が馬鹿みたいだった。
「こっちのセリフだ!無茶すんなよ!」
「さ、キミたち歩けるなら歩いて。ほらもう見えてるだろ?あそこが家だよ」
屈み込んでくれても、子ウサギの背丈ではどうしても見上げる位置にある眼鏡が真上からの日光を反射していた。
秋丸が指さした先を二匹が見遣ると、確かにそこに人間の家があった。
道と庭を隔てる垣根の向こうに、南向きの窓が見える。
その窓枠にちょこんと腰掛けた小さな影に、田島と阿部が同時に目を剥いた。
「ミッ」
田島が脱兎のごとく走り出す。
一拍遅れてハッとした阿部が田島の後を追った。
「えっ!おーいどうしたのキミたち、急に」
突如走り出したウサギに意表を衝かれたものの、秋丸の声音にはさほど焦ったような様子は窺えない。
人から見れば子ウサギの歩幅などたかが知れたもので、掴まえるというなら話は別だが、追いつこうと思えば追いつくことは難くない。
さらに、二匹の進行方向は一直線に同じ目的地を目指していた。
秋丸はあくまでのんびりとした歩調で彼らの後を歩く。
その少し後ろを、ぶすくれた表情の榛名が姿勢良く大股で歩いた。
田島が一番乗りで垣根をくぐりトップスピードのまま庭を横切って窓の下を目指す。
走りながら、遠目でも見間違えるはずのないウサギの名を呼んだ。
「三橋っ!!」
名前を呼ばれたウサギは、目玉が落ちるのではないかと思わせるほど目を見開き、次の瞬間、
「たっじ、ま…くっ、あ…べく、ん!」
地面から上へ人間の胸ほどの高さの窓枠から、ためらいもせず宙に身を躍らせた。
それを見てしまった阿部の、顔面から一気に血の気が引く。
「みっ!バッっ!!」
跳んだ三橋は、器用に着地をするでもなく、べしゃりとただ地面に落ちた。
ついに、阿部の腰が抜ける。阿部は走り続けることもできず、その場にへたり込んだ。
受け止めるまでの余裕はなかったが、落下とほぼ同時に窓の下へ駆けつけた田島が、三橋を覗き込む。
「三橋!だいじょぶか?」
「だ、いじょ、ぶ!」
端からは不自然な体勢で落ちたように見えたが、当の本人は何事もなかったかのようにピョコンと元気に飛び起きた。
「うははははっ!なにしてんだ、三橋!」
無事を見届け、安心した田島が笑い飛ばすと、つられて三橋が変な笑い声を上げる。
「うへへへへ」
ふと二匹のウサギの上に、陽を遮る影ができる。
田島が見上げると、ゆっくりと追いついた秋丸が上から覗いていた。
「派手に落ちたねえミハシくん、ほんとに大丈夫かい?ちょっと見せてごらん」
「は、はい」
屈み込んで小動物と距離を縮めた秋丸が伸ばした手に、三橋がまったく警戒しないのを見て田島は目を丸くする。
三橋はウサギの中でも特に臆病で、人間など気配を感じただけで逃げ出して隠れたはずなのに。
「うん、確かに異常はないようだね、キミずいぶん身体が柔らかいな」
秋丸が三橋の身体を一通り確認して太鼓判を押せば、三橋は照れたような表情で笑った。
「う、ひ」
少し離れた位置から秋丸の言葉を必死に聞き逃すまいと長い耳をそばだてていた阿部がホッと胸を撫で下ろす。
「おまえ、なにやってんの?」
いまだ立たない腰で地面に座り込んだままの阿部を後ろから追いついた榛名が見下ろしていた。
「あれ」
「ハ?」
「あのウサギ」
「あー、こないだ拾った。ん?知り合いか?」
じっと三橋を見ていた視線を外した阿部が真上を見上げて榛名を睨む。
「このウサギ攫い」
真正面からぶつけられた暴言に、目を眇めた榛名はユラリと静かな怒気を纏った。
「おまえね、言葉に気を付けろよ」
低い声は明らかな怒りを含み、その声音は聞く者を震え上がらせる。
ようやく回復した足腰に力を入れ立ち上がった阿部は、それでも怯まず大きな人間を睨み上げた。
一人と一匹の間の張り詰めた空気を、ててててっと軽い足音が遮る。
「あ、べく、ん!」
三橋が阿部に駆け寄って、ベストの裾を掴んだ。
「ハ、ルナさんっいいひとだ、よっ!!」
「ハア?」
まさか三橋が人間を庇うとは思っていなかった阿部は、表情を取り繕う余裕もなく振り返り、ウサギくらいの小動物なら殺せてしまいそうな視線で三橋を見た。
「あ、あの」
三橋はビクリと肩を揺らし、だが懸命に言葉を継いだ。
「お、オレ…は、はた、け…で、寝ちゃって…お起き、たらこ…の家に」
「だったら、さっさと帰ってくりゃいいだろ」
最低限の我慢で三橋の言い分を聞いた阿部が不機嫌を隠さない声音ですぐに反論する。
何かを言いづらそうに顔ごと視線を泳がせる三橋の不審な動きを、阿部は薄目でやり過ごす。
三橋との接し方を思い出しながら、イラッとするのをぐっと堪えて話し出すのを待った。
「……か、帰り道…わ、かんなくて…」
意を決したように話し出した三橋は、最後は消え入りそうな声で恥ずかしそうに俯いた。
「榛名ー、お昼にするよー!その子たち連れてきてー」
いつの間にか、すっかり昼食の用意を調えたらしい秋丸が家の中から呼べば、榛名の意識はあっと言う間に「お昼」という単語に絡め取られた。
ぐううううと腹を鳴らし、目を輝かせる。
「おっし!メシだ!おまえら、ちゃっちゃと家入れ!」
「エッ!?」
その言葉に、三橋以外の二匹がギョッとした。
榛名のすぐ傍にいた阿部と三橋の元へ田島が慌てて駆け戻る。
その行動を榛名が不思議そうに見下ろした。
「なに戻ってきてんだ?逆だろ。うちのシチューはウメーぞ!」
シチュー、と言いながら上唇を舐めた榛名に、阿部は無意識に腰を引き、三橋はヨダレを垂らし、田島は耳の毛を逆撫でて榛名と阿部の間で地面に踏ん張った。
「オ!オレたち食われるのか!?」
必死の形相で見上げる田島に、榛名は一瞬きょとんとしてから、
「ぶっっ!!」
盛大に吹き出した。
げらげらと笑い出した榛名と、呆気に取られそれを見上げる田島と阿部の双方を、どうすればいいのか迷った三橋が挙動不審に見比べた。
息を乱すほど思い切り笑った榛名が、ようやく笑いを収める。
「ウサギなんか食わねーよ!食うとこねえじゃん」
「なんか、だと?」
阿部が言葉尻を捉え眉間にしわを寄せ不快を表す。
「んだよ?そんなに食われたいのか?」
榛名がニヤリと笑えば、阿部はうぐっと言葉を詰まらせた。
「うら、メシだってば。おまえらの分もあるぞ。入って来いよ」
それだけ言って背を向けた榛名は、大股で玄関に向かい家の中へと消えていった。
田島と阿部は、まだ半信半疑で榛名が閉めずにおいたドアを見遣る。
二匹の背後で三橋が拳を握った。
「あっのね!」
三橋の大きくはっきりした呼びかけに、すぐに二匹は振り返る。
「なんだよ?」
「おっきいにんじん入りシチュー!おい、しい、よ!」
へらりと三橋が珍しく緩みきった笑顔を見せる。
そういえば三橋があの人間たちにずいぶんと懐いていた、ということを思い出した田島の腹が派手に鳴いた。
「ごはん、食べにいこ!」
食べることに関してだけは異様に積極的な三橋が先頭に立って歩き出した。
三匹はおっかなびっくり、どこもかしこも大きな家の中に入る。
玄関を抜けると、慣れたように一直線に歩き出した三橋が迷わずダイニングへと阿部と田島を先導した。
子ウサギが通れるくらいの隙間が残されていたドアを抜けて部屋に入ると、充満したシチューの匂いにウサギたちは鼻をひくつかせる。
「いらっしゃい、こっちおいで。先に手を洗ったほうがいいね」
秋丸に言われ、三匹は促されるままシンクへと歩いた。三橋から順番に秋丸が持ち上げて、手を洗わせる。
椅子の上にクッションを重ねた特等席を三つ、決して座り心地を考慮したわけではなく、純粋に足りない高さを稼ぐために。
「さて、じゃあこちらへどーぞ。あっ、榛名!つまみ食いしない!」
ウサギたちが無事に腰掛け、悪びれもせずセロリスティックをぼりぼりと貪っていた榛名をいつも通り秋丸が叱責すると、いつもよりも賑やかな食事が始まる。
食卓には、ホワイトシチューが湯気を上げ、篭いっぱいのパンと黄色が鮮やかな大きなオムレツ、サラダボウルに盛られた色とりどりのサラダとマヨネーズの添えられたセロリスティック。
人間が二人、パンっと音をたてて手を合わせる。
「いただきます!」
ウサギが三匹、食卓をキラキラとした目で見ながら揃えて口を開く。
「うまそう!うまそう!うまそう!いっただきまーす!」
食事が終われば、五つの声が一つになった。
「ごちそうさまでした!」
「すげーうまかった!にんげんってオレらを掴まえるもんだと思ってたけど、おまえらイイヤツだなー」
まっすぐな瞳で田島に見つめられ、秋丸は苦笑した。
「イイヤツかどうかはわからないけど、そうだね、キミたちを掴まえたりはしないかな」
「イイヤツだろ!だって三橋がこんなに緩んでるのすげー珍しいんだぜ」
田島の隣では、満腹になった三橋が椅子に座ったまま、うとうとと船をこぎ始めていた。
反対側の隣では、片付けを手伝うと言ったら、居ても邪魔だ、とすげなく断られた阿部がその断り方にムッとしてぶすくれている。
「そう?まあ気に入ってもらえたなら良かった。またいつでも遊びにおいで」
「いいのか?」
「もちろん。ね、榛名」
秋丸は軽く振り返り、皿洗いを始めた榛名へ同意を求める。榛名は手を止めなかったが、きちんと返事は返ってきた。
「好きにしろ。ただ、畑荒されんのはムカツクからな、やめろよ」
言われて、田島がハッとする。
「あっそっか!ごめんなさい。にんじんも返すよ。ほんとごめん」
田島は、深く反省して頭を下げる。
「お詫びとご飯のお礼に、今度うさぎたばこ持ってくる!ゲンミツに!」
うさぎたばこ、と聞いて秋丸は嬉しそうに笑い、榛名は眉をしかめた。
「え!ほんとかい?嬉しいなあ」
「は?タバコなんかいらねーよ。そんなんより」
泡立てたスポンジですべての皿の汚れを落とし終えた榛名が、蛇口を捻り手についた泡を洗い流してから、振り返る。
「おまえら野球できねーの?二人じゃキャッチしかできねんだよな」
「野球!?やる!やりたい!オレはどんな球でも打つよ!」
田島が打者の顔で言い切る。
「打たせねーよ」
榛名が投手の顔で立ちはだかる。
「ああ、それいいねえ」
「田島!絶対負けんな!」
一方はのんびりと、もう一方は敵意露わに、捕手の声が重なった。
「じゃあ、今度みんな連れて来るから野球な!」
「おう、いつでも来い」
「うん、待ってるよ」
おじゃましました、ペコリと礼をして頭を上げた反動で長い耳が六つ、ふさりと揺れる。
歩き出す田島の背には、眠っている三橋。阿部の手の中には、秋丸が持たせてくれたにんじんがたくさん。
二匹の子ウサギは、両手にいっぱいのお土産を持って仲間の待つ巣穴へと帰路についた。
**
エース=大黒柱=父さん
という強引な図式で
三橋=父さん(最初のどんの話に出てきた)です
親子なわけじゃなく、使わないあだ名(意味ない)のようなものです
うさぎたばこというのは、ラベンダーのことです
秋丸=知ってた 榛名=知らなかった
**
や、やっとおわったー!!
おつきあいくださりどうもありがとうございました!!
2009-03-31
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